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null〈あの人ね、院長先生の愛人じゃないかって思うの〉  憶測による中傷。——むろん信じてはいないのだが、石の裏にこびりついた菌苔《きんたい》類のように頭の隅にしつこく残っている。 〈沢村先生のことも好きだったんだよ。ふたりはできてたかもしれないよ。それだけじゃないよ。まだあるんだよ。大窪とも怪しいんだ。知ってるでしょ、大窪って看護士〉  そんな言葉がよみがえるたびに、榊は自分自身に腹が立った。信じる気などないし、信じれば亜左美の思う壺《つぼ》だと判っているにもかかわらず、ついそういう目で広瀬由起を見てしまいそうになる自分が腹立たしかった。 「ええ、それは別にかまわないですが……」  語尾をにごし、相手の真意をさぐるような返答をした。  広瀬由起は、小声のまま、 「一緒に東京へ行っていただきたいんです」  と言った。しかし、男を誘う女の媚《こ》びは、その声にはない。 「東京へ?」 「向こうで、ぜひ会っていただきたい方がいるんです」 「ほう、どんな方ですか?」 「精神分析医です」  それを聞いた榊が眉をよせるのを見て、彼女はすぐに付け加えた。「あ、でも、その先生は、榊先生が思い描いてらっしゃるような古くさい精神分析医とは、ちょっと違うんです。新しいタイプの精神分析をなさる方です。〈エディプス・コンプレックス〉だの〈肛門期〉だの、ああいう妙な空想理論をいまだに信奉《しんぽう》しているような方じゃありませんし、ラカン派みたいに抽象概念を弄《もてあそ》んだりもなさいません。ですから、どうか厭がらずに会っていただきたいんです」  榊は、広瀬由起の意図を誤解した。いましがたポケットにしまった抗鬱薬。そのことに関連づけて彼女の言葉を受け取ってしまった。榊が抗鬱薬を飲んでいることを薬剤師から耳に入れ、それでこんなことを言い出したのかと思ったのだ。 「ぼくに精神分析を受けさせたいんですか? お気づかいはありがたいですが、ぼくの鬱はたいしたことないんです。ひどくならないうちにと思って薬を飲みはじめただけです。それに、新しいタイプでも古いタイプでも、精神分析なんかで鬱は治せないでしょう」  榊の誤解に気づいた広瀬由起は、薄い微笑で打ち消した。 「そんなつもりで言ったんじゃありません。そうじゃなくて……つまり、その先生は、DIDについてお詳しいんです。DIDの人を実際に治療した経験がおありなんです。で、ぜひいちど、その先生のお話を聞いていただきたいんです」